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文久2年閏8月24日(1862.10.17)
【江】一橋慶喜登城再開
【他】清河八郎、松平春嶽への上書を水戸藩士住谷寅之助に託す

■幕政改革へ
【江】文久2年閏8月24日、後見職一橋慶喜は登城を再開しました。

慶喜は献上物廃止をめぐって老中と対立し、閏8月15日に登城を停止すると(こちら)、16日には春嶽に幕政改革の意見書を送り、辞意を告げていました(こちら)。しかし、17日に幕府が献上物廃止を決め(こちら)、22日に改革令を布告(こちら)したことで、この日から登城を再開しました。

参考:『続再夢紀事』、『徳川慶喜公伝』(2003.10.23)
関連:■テーマ別文久2「「幕政改革問題
■浪士組創設へ
文久2年閏8月24日、政事総裁職松平春嶽宛の大赦に関する上書を書き上げた清河八郎は、飛脚を使って上書を水戸藩士の住谷寅之助に託し、江戸の間崎哲馬・山岡鉄太郎(鉄舟)に春嶽に提出するよう便宜をはかってほしいと頼みました。(潜中紀事)

<ヒロ>
住谷寅之助(当時45歳)は藩士(100石)で、斉昭雪冤運動に関わり、また原市之進らとともに老中安藤信正襲撃(「開国開城」「坂下門外の変」)計画に関った尊攘激派です。このとき、長州藩士周布政之助や桂小五郎に書簡を送り、水長盟約に基づいて行動を起すよう求めています(長州藩の事情で長州藩の参加は成りませんでした)。潜伏中の清河と頻繁に会合を持ち、清河に頼まれて松平春嶽への上書を江戸の間崎哲馬に渡しています。文久3年の藩主上洛に先発して上京し、尊攘激派の翠紅館会議にも参加(こちら)。藩主東帰後も京都警衛指揮役として本国寺に留まりました(在京水戸激派=本国寺党の中心人物の一人です)。

参考>『清河八郎遺著』(2003.10.23)
関連:■清河/浪士組日誌文久2年@衛士館


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